2017.03.14

ヨロン島

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那覇空港から30分、目的の島に近づいた。鹿児島県南端の与論島―珊瑚礁に囲まれた人口5,000人程度の小さな島である。

飛行機の小窓から見えた白壁の建物は小間物店と見紛う小さな空港だった。南の風が、降機する私たちをふわりと出迎えてくれ、ベルトコンベアーではなく人が、荷物をひとつひとつ手渡してくれた。

「どれくらいで島を一周できますか?」軽自動車に乗り込み、ドライバー役の古屋氏に尋ねると、「この速さなら、一時間で一周できるよ」。 “この速さなら”と言っても、時速30kmも出ていない。この島では、これくらいの速度がちょうどいい。

ふしぎだなぁ。
琉球瓦、サトウキビ畑、石垣、南国の花。沖縄の香りがぷんぷんするのに、走る車はみな鹿児島ナンバー。
元々琉球王国に属していた与論島は、1609年に薩摩藩の支配下となった。そのため鹿児島県の島でありながら、沖縄の文化や雰囲気が残っている。

与論民俗村

“与論島に触れるならここを見学すべし”と与論民俗村を村長の菊秀史さんに案内していただいた。丸い茅葺屋根の住居が建ち、家の縁側には古い民具が並び、サトウキビを絞る昔ながらの道具が展示されている。

四角形の家の屋根の上方で結ばれたススキは、まるで頭にハチマキを結ったように見える。

「この丸い茅葺屋根のおうちは、与論島独特のおうちなのですか?」

「茅葺きは昭和28年ごろまでこの島にあったのですが、今はこの民俗村だけで伝承しており、現在、こういう住居はこの民俗村以外一軒もありません。家が正方形だと自然と丸い屋根になるでしょう。どこから台風が来ても当たりが一番少ない。台風を考えると、自然とそういう知恵が出てきますね」

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ススキの根を上に向け、葉を下に向けているのは台風と雨漏り対策。昔の農家のお年寄りは、皆こうした住居をつくることができたけれど、今の若い人には継承されていないという。菊さんご家族はこうした茅葺の家づくりを子どもたちに教えているそうだ。

「ところで、ここは地震はあるのですか?」
「地震もありますよ。与論島では、地震は古語を使います」
「古語??」
「ネーヌユユン。与論島では地震のことを“ネーヌユユン”と言います。“ネー”は大地、“ユユン”は揺れる。感動詞はネーヌユティと言います。確か、地震は幕末くらいにできた言葉のはず」

与論島の言葉は、与論独自の言葉。沖永良部島とも違う。沖縄の北部に似ていて、鹿児島の南、枕崎にも似ているという。

「“いらっしゃいませ”は、与論島では“ウヮーチタバーリ”。水戸黄門でよく使うでしょう“ここにおわす御方をどなたと心得る。こちらにおわすは・・・” と。 “おわす”の古語は“ウヮ―チ”なんです。“たまわり”の古語が“タバーリ”。“ご在宅でいらっしゃいますね”は“ウヮ―チタベイ”」

はじめて耳にした与論島の方言。一瞬、外国語のように聞こえるけれど、よくよく聞くと「なるほど!」と感動する。

「“ありがとう”は、与論語で“トートゥガナシ”。有難うは“めったにないことだよ”という意味ですよね。有ることが難しいで、有り難し。めったに無い尊いこと、尊いが無し、トートゥガナシ。沖縄ではありがとうは“ニへ―デービル”。ニヘーは、拝むという“二拝”の説もあります」

沖縄よりも与論島の方言のほうがなんとなく理解出来る。私たちの話している日本語(ヤマト言葉)にそっくりなのだ。そっくりというよりも、むしろ日本語の原型なのでは…。

「与論の言葉は、言語学的にはとても大事なんです。断絶されたところに、もしかしたら沖縄よりも古の言葉がそのまま残っている」

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そして、菊さんはこう言った。「日本語を知るためには、ここの言葉を残さなければいけない」
「私はバイリンガルですけれど、両方使えて当たり前なのだということを伝えないといけない。明治に戸籍制度ができてから名前を持つようになった与論島の人はみな大和名(ヤマトナ)以外に家名(ヤーナー)があり、2つ名前を持っています。祖先の名を絶やさぬよう襲名するのです。トゥクさん、ウシさん、マチさん、ハナさん・・・といったヤーナーを」

奥のほうから着物に前掛け姿の、ほっかぶりをした素敵な女性が現れた。

その女性は、菊千代パーパー(ばあちゃん)と島民から親しまれる菊秀史さんのお母様だった。菊千代さんは大正15年(1926年)生まれ、御年91歳。

「今、芭蕉布織りをしている最中なんです」と秀史さん。「ここに展示されている民具はすべて母が集めた民具で、この民俗村は母がつくったのです」

昭和38年(1963年)ごろから、千代さんは私財を投じて、捨てられそうな民具を収集し、与論島の方言を研究されてきたそうだ。ここには「与論方言集」の本が何冊も並んでいる。この言葉は、千代さんの深い想いによってこうして残されている。

ヨロンケンポウ

与論島でのある日の晩餐は、町議会議員、町俊策さんのお宅にお邪魔した。
裏の畑で採れたもぎ立てトマトとアボカド、「いしかた」という島ミカン、「ナスタチウム」という山葵の味に似た葉、「カニステル」という卵の黄身のような味がする果物、もずく酢、お刺身、牛肉のバーベキュー、黒糖の蒸しパンなどなど、御馳走が並んだ。

実は、与論島訪問前に噂に聞いていたのがこの島の歓待の儀式。私はこの晩はじめてその名を知った。

「ヨロンケンポウ」

私は、とぼけた質問をしてしまった。
「与論の憲法があるんですか?」おじさまたちは、酔っ払いながらもいっしょけんめい説明してくれた。「ちがう、ちがう、その憲法じゃなくて、献上奉納の、与論献奉だよ」

名の由来は、琉球王朝出の島王を迎えるにあたり大杯を献じ奉ったとか、儀式のルールとして十か条からなる憲法ができたとか、諸説あるようだが、永禄4年(1561年)に始まったとされ、この島に伝わる伝統文化であることに変わりはないようだ。

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黒糖焼酎を大盃になみなみと盛り、接待された客がそれを飲み干す。
その盃をその場に集うすべての者に回して飲むのだが、受杯者は飲む前に自己紹介などの口上を述べる。この儀式、私は中国で体験したような…。

立派な盃がわたしに回ってきた。なみなみと注がれた黒糖焼酎「有泉」20度。与論島では焼酎は薄めずに飲む。

「昔は25度だったな。これが30度になるとまた旨いんだ。度数が高ければ高いほど美味しいのよ」町長さんはじめ、島の重鎮たちの視線が私に集まる。

「与論島では“お終いですよ”は、“とー”と言います。ストップの合図は“とー!”と言ってください」そう言われ、注がれる焼酎にむかって私はすかさず「とー、とー、とー、とー!!」と言うも、焼酎があふれるほどの歓待を受けた。

「私は主人を車で送らなければならないから」と、お酒を口にしない控えめな女性陣だったが、実は、男性陣より強いという噂。
島民はお酒に強しといえども、泥酔したり、前後不覚になることもしばしばで、儀式廃止の議論もあったようだが、伝統文化はしっかり受け継がれ今日に至っている。
町長の山元宗さんは朗らかに言った「お酒に弱かったら、与論町の町長は務まりません」

この島の人はあたたかい。人見知りしないというか、人が人を好きというか、どこか人懐こく憎めない印象。この島では猫までもが人懐こく、猫が苦手な私でさえこの島では猫を可愛いと思えた。

翌朝は、島一番の高台(約100m)で、集落を一望できる与論城跡を訪ね、同じ敷地にある地主(とこぬし)神社と琴平神社を参詣した。

遠方の島々を臨む素晴らしい眺めで、築城するならここしかないなと思う。15世紀初め、琉球北山王の三男、王舅(オーシャン)によって築城されるも、北山滅亡のため未完成であったと考えられている。紺碧の海では、サンゴ礁に打ち寄せる白い波が島を囲んでいるのが見える。

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「僕はここの海が日本でも1、2を争う美しさだと思うよ」
何時の頃からかこの島に魅せられ、この島への移住を考えている古屋さんが、寒い冬の東京で語ったその海の美しさを一度は私も見てみたいと思っていた。

寺崎海岸にある「トゥマイとティララキの夫婦龍」と呼ばれるサンゴの奇岩にはそんな言い伝えがある。“天から黄金の龍が舞い降り、島全体にパワーを撒いて天に昇って行った――” 確かに、この島の門扉のような、あ・うんの狛犬のような、海と陸の守り神のようにも見える夫婦龍。クジラの親子も子育てのためにやってくるその海は、古屋さんの言っていたとおり美しい海だった。

「たとえ、一人ぼっちで家にいたとしても、毎日だれかが訪ねて来てくれそうでしょう。それが僕がこの島に住みたいと思っている理由のひとつかな」島を離れる前、古屋さんがぽつりそう呟いた。

「次回、この島を訪れるときは、古屋さんの結婚式」島の芳名帳には誰かの文字でそう記されていた。

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