2016.12.13

ジョイントメモリアル-今を生きる

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2016年9月25日、ハワイ州ホノルルの国立基地パンチボウルにて「WW2日系人部隊合同慰霊祭」が執り行われた。私は、小池良児*1氏と共に参加させていただいた。

「この合同慰霊祭は、遺骨を収集できない方のためのメモリアルとして行われたのが始まりです」小池氏はそう語りながら、白い仮設テントの下へ私を導いた。

100席ほどの椅子には、元2世兵士とご家族、ハリー・ハリス米太平洋軍司令官、三澤康日本国総領事ご夫妻、メディア関係者が着席。元2世兵士の参加は30名程。高齢化のため出席が難しくなってきているようで、車椅子や、歩行補助器を使用して参列されている方も多いように感じた。

午前10時、ロイヤルハワイアンバンドの演奏が奏でられ、国歌とハワイ州歌斉唱。犠牲となった日系兵たちの尊い命へ、牧師によって祈りが捧げられた。

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1941年12月、日本軍が真珠湾を攻撃し、日本人の先祖を持つ日系アメリカ人たちは“敵性外国人”というレッテルを貼られ、全国で10万人以上の日系人が強制収容所に送られた。仕事にありつけず、多くの家族が破産した絶望の中で、祖国アメリカへの忠誠心を示したいという気運が高まり、鉄条網の中から何千人もの若者が軍隊に志願。ハワイから志願した日系人の若者と共に結成された部隊が、第100歩兵隊、第442連隊、MIS情報部隊、第1399工兵隊だ。

式典終了後、デグチ・ヤスノリ氏にお話を伺った。英語のほうが会話しやすいはずなのに、懸命に日本語で私に語ってくださった。

「私は大正13年11月、ハワイ島コナで生まれました。今年92歳になります。8人兄弟の3男です。我が家は大家族でした。元々、祖父母が熊本からコナへ出稼ぎに来たのです。父親は1895年、2~3年の契約でマウイ島のサトウキビ畑で働いていました。父は結婚前にハワイ島へ移住。父は20年ほど独身だったのですが、1915年 Picture Bride*2として母が日本からハワイへやって来ました。父は早くに亡くなり、母はコーヒー畑で働きながら、女手ひとつで私たちを育てたのです」

映画「Picture Bride」では、“Diamonds on Diamond Head! (ダイアモンドヘッドには本物のダイアモンドがある)” そう信じてハワイにやって来た日本人が描かれている。サトウキビ畑での過酷な労働、日本に帰るのは容易ではなかったこと。

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「小さい時から親や近所の人からUpbringing(しつけ)がありました。“Respect each other”ということや、“朝 ベンベン、夕 バタバタ”と母はよく言っていました。朝いっしょけんめい仕事をしなさい。遅くなってからバタバタやり始めてはいけない。昼過ぎからやってもToo Late だという。Do your best in a moment いつでも一生懸命やれ。今を生きろ、ということです」

「Japaneseは母国と思っていましたから、決してEnemy(敵)とは思わなかった。けれども、真珠湾が攻撃され大変なことになったと思った。私は17歳でした。1943年3月18日、第442連隊に志願し入隊。1944年イタリア戦へ行った後、フランスのBryuere(ブリエア)へ。テキサス大隊200名が山頂に置かれドイツ軍に包囲された。第442連隊はドイツ軍を破り突撃。1500人の日系兵がいましたが、200名のテキサス大隊を救うために800人の兵士が負傷激し、200人以上が亡くなりました。5日間の戦いでした」

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ドイツ軍に突撃し「Lost Battalion(失われた大隊)」を救出した日系兵は後に“信頼されるアメリカ市民”として認められ、第442連隊は多くの勲章を受けている。

ハロルド工藤氏が昨年の退役軍人の日に戦友に送られた言葉が、リン平楽寺氏によって祈念講演で語られた。

「もし第442連隊での経験をしていなかったら、ダニエル井上上院議員もスパーク松永氏も上院議員になることはなかったでしょう。私たちは戦争を経て以前よりずっと大人になり、より良くなって帰還した。戦争がおもいがけない機会への扉を開いてくれたと思っています」

第100歩兵大隊出身で連邦議会上院議員を務めたスパーク松永氏の子息、マット松永氏は講演で次のように語った。

「多くの勇敢な兵士たち民主主義を守るため危険に飛び込んでいったのです。そして次代のために学びの機会と可能性を残してくれたのです。第100歩兵大隊兵士の息子として、学んだことは、まず一生懸命働くこと。次に情熱を見つけること。そして、独創的であること。父は“もし私たちが軍学校で最高の戦闘方法を教えることができるなら、最高の平和を保つ方法も教えることができるはずだ”と信じていました。私の父は議会で平和の学校設立に10年にわたって奔走し、1984年に平和研究所が設立されました。これは今日、私たちが困難を乗り越えるための導きとなっています。この機会を生かさなければなりません。父やその戦友たちが情熱と独創性をもって一生懸命働いてきた、困難を乗り越えてきた。彼らに私たちも見習わなければなりません」

インタビュー終了後、デグチ氏が杖をつき、ゆっくり立ち上がると、通りかかったアメリカ人の観光客の女性が氏に駆け寄った。「一緒に記念撮影をお願いします―― I’m so proud of you. (私はあなたを誇りに思います)」

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「ここではいつも同級生を思い出します」デグチ氏は淡々と穏やかにそう呟いた。
デグチ氏と握手を交わすと、その手は、ゴツゴツした力強い働き者の手だった。コーヒーの木で作ったお手製の杖には、朱の漢字で“出口“という刻印があった。帽子には“GO FOR BROKE”と刻まれている。

「今度はコナへ、私が育てたコーヒーを飲みにいらっしゃい」かつてのヒーローは私にそう仰って、杖をつきながら会場を後にした。

パンチボウルでは、私たちの足元に日本語名の英霊たちが眠り、無数の星条旗がハワイの風に揺れている。若くして人生を絶たれた人たち。ハワイの日本人を支えた人たち。式典で語られた日系2世の言葉がここに眠る人たちと、今も当時のことを語り継いでいる人たちの思いだ。

“今日が最後の日かもしれない”この思いは決して消えることはありません。

*1小池良児氏は、真珠湾・フォード島の「太平洋航空博物館パールハーバー」で、日米双方の歴史観、視点、その事実を伝えようと努めている日本人の語り部。今年、退役軍人ゲイリー・マイヤーズ氏と共に日米親善プロジェクトの展示会を開催。来年は、若者が平和を学べるプログラムを始める予定。
*2米国にいる日本人男性が日本にいる女性と写真だけでお見合いをし、結婚が決まると、花嫁となる女性は渡米した。

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