2016.08.09

1000年の味

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5月末の京都駅は、制服姿の修学旅行生で埋め尽くされていた。おそらく中学生だろう。
彼らは3~4人のグループに分かれ、タクシーで観光名所を巡っていた。私がタクシーに乗車すると運転手がこう言った。「私たちタクシー運転手がガイドを務めているんですよ」。タクシーで観光名所を巡る今時の修学旅行にも驚いたが、運転手さんがガイドをしていることにも感心する。

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「子ども達がはぐれてはいけないし、なかなか責任重大な仕事です」

さて、私が目的地を告げると、「渋いところへ行かはりますなあ」と運転手さん。

閑静な路地を抜け、到着したのは、元禄7年(1694)に建立された禅寺「源光庵」。人の少ない静かな場所だ。

ここにも2~3人の中学生がいた。学生達が乗車してきたであろうタクシードライバーが、タクシー会社の制服でガイドを務めていた。先ほど聞いていた通りの光景だった。

本堂でまず目を引くのは、大きな円い窓と、四角い窓。円い窓は「悟りの窓」と呼ばれ、この世の真理や、宇宙、ものごとにとらわれず偏りのない、大らかな心を表している。一方、四角い窓は「迷いの窓」と呼ばれ、世間という枠にとらわれ、そこから抜け出せない心を表している。ちなみに、三角形は、禅の心では「座禅の姿」で、仏さまと同じような落ちついた心境を表しているという。

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「でもさ・・・緑がビミョ~だよなー」

窓の前に坐していると、後方を横切りながら呟く男子学生の声が聞こえた。そうかな?紅葉も素敵だけれど、この新緑の緑色も私は好きよ・・・とは、私の心の声・・・。

その後、私の乗ったタクシーの運転手さんが、自身の携帯電話に収めてあるお気に入りの写真を一枚見せて下さった。丸窓と四角窓の向こうに写っていたのは、真っ白な雪景色だった。「雪の日の源光庵もいいですね」と私が言うと、「ええ。でも、私は桜が終わった頃、4月の萌葱(もえぎ)色が一番好きなんですよ。」と運転手さん。

この丸窓と四角窓に、十人十色それぞれの心模様を映し出していることがまた面白い。そして、年を経るとまた、好きな色も変わるかもしれない。書院のノートをめくると、記帳されていた大学生の言葉に目がとまる。

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“「丸い窓と四角い窓、どちらが大きいんだろう」という問いは、六年経っても答えが出ませんでした。次に来る時は、きっと解決できると期待しています。”

長い歴史の中でこの世の色、人々の心を映してきた迷いの窓と悟りの窓。人の悩みも苦しみも、そして、美しいものを美しいと思う心は変わらないのだと感じる。窓の向こうにあるもの、そして、心に訪れるのは、ただただ、静寂だった。

学生達を率いるタクシードライバーの声が、背後から聞こえてきた。「家康が手薄にした伏見城を、何万という敵が取り囲み滅ぼそうとした。それで、城を守っていた兵士達は自分らで討ち死にした。で、死体でべたべたになった床を天井に嵌めたんや…君らにそんなん言うてもわからへんやん」
「まじか!?」と反応する男子生徒。
本堂の天井は全面にわたり血で染まっていて、手形、足形の血痕がおびただしい。

「血はこんなに長いあいだ鮮明に残るものなのか・・・。
なぜ、血まみれの床板を天井にしたのだろうか…」

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前、徳川家康は会津の上杉景勝討伐のため、重臣鳥居元忠以下1800人で伏見城を守るよう命じた。家康が京を離れた隙に、石田三成の軍勢(なんと9万3700余!)に城を攻撃される。元忠ら城兵、武運つたないながらも、三成軍を少しでも長く京に留まらせ、会津に援軍に向かわせないよう勇み立つ。しかし遂に力尽きた元忠は、自ら腹をかき切り、残る部下380人も自害。その後、関ヶ原の戦いが終わるまで、約2ヶ月間ものあいだ、鳥居元忠達の遺体は放置されていたという。床板に付いた兵士たちの血痕はどんなに洗っても落ちなくなった。彼らの血に染まった床板を踏んでは供養にならないからと、床板を外し、寺の天井に移したのだ。

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京都には、このような弔いの血天井が源光庵のみならず各地にあるという。
「足で踏む床板だと供養にならない・・・」
そのような心で京都の人は、血天井として菩提を手厚く弔っている。
京都の人はものを大切にするという。それはきっと、そのものに宿る“こころ”も大切にしているということだ。

生きるも死ぬも自分たちではどうしようもなかった時代、戦うことが普通であった時代、戦国の世を生きた人々のおかげで現代の私たちがある。まるで現代の私たちを天井から見守るように、降るように、生々しく鮮やかに彼らの血が残っていた。

源光庵に続き、この度はじめて参拝した伏見稲荷大社。現在、外国の方に大人気のスポットだという赤い鳥居は、観光客で溢れていた。神社の入り口には、お稲荷さんの狐の像が2つ。江戸時代は、招き猫ならぬ、招き狐だったとか。

稲を運ぶ神様の使いだった狐だが、いつの頃からか狐自身が神様として祀られるようになった。稲が成る神社・・・稲成り神社・・・稲荷大社。日本の農業の中心は稲作。そして、お米の次に多く栽培されたのが野菜。

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1800年頃、伏見稲荷大社へのお供え物として栽培されていたのが九条ネギ。その名のとおり、東九条、西九条界隈で栽培されていたことからその名がついた京野菜のひとつ。京野菜といえば、他にも、賀茂ナス、万願寺唐辛子、壬生菜(みぶな)、山椒、海老芋、桃山大根、芋茎(ずいき)、昔ながらのきゅうりを、錦市場などの店頭でも見かける。

なぜ京都には独特な野菜が多いのだろう…。
それは、長いあいだ、都として栄えたということがひとつ。平安京ができ、仏教が盛んになり、肉を食さない貴族社会を中心とした文化が花ひらいていた時代、海から遠い場所でもある京都では、魚介類より野菜の美味しさにこだわり、京都ならではの野菜が育まれてきた。都を支えていたひとつに、農村の作物があったのだ。また、山に囲まれた京都の、寒い冬、暑い夏という気候の条件も、京野菜に独特な風味を与えているのだろう。九条ネギは寒さを与えてこそ、ネギの葉の中のヌルヌルした粘りも、甘みも増すという。
そして、野菜は、水と土壌で決まる。琵琶湖からひかれた水。京都を囲む山々からわき出る水。地中深くに湛えられた良質の水。大地に浸み込む雨水が土壌の水分となる。
水は、土地の性質によって異なり、東西南北・中央の気に従う。京の水について書かれた1695年の資料によると、東北の水は重く、気が荒い。西南の水は軽くて柔らかい。中央の水は、重すぎず、軽すぎず、硬すぎず、柔らかすぎず、京都の水が第一級とされていたようだ。なるほど、京都のお豆腐や出汁が美味しいのも、京料理、京野菜、京漬物も、京都の独特な食は、京都の水に支えられているんだ。

祇園甲部の有名なイタリアンレストランでは、昔ながらの京野菜を積極的に料理に取り入れていた。例えば、朝風きゅうりのリゾット(からすみ添え)。朝風きゅうりは、私たちが普段食している西洋きゅうりと比べると淡い緑色で、かたい食感。種が大きく、瓜のごとく大きくなる。そして病気に弱い。

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朝風きゅうりは、京都の聖護院付近で栽培されていた「聖護院きゅうり」の改良種だと言われている。この、聖護院きゅうり、実は絶滅品種。京都ではシロウリが主に栽培されていたので、きゅうりはそれほど栽培されなかったのだ。栽培は、暖かい場所で育つ早生きゅうりに押されぎみで、戦中戦後に聖護院きゅうりの人気が無くなり、ついには絶滅品種に。しかし、聖護院きゅうりは他のきゅうりと交配され、品種改良されたきゅうりを残している。そのひとつが朝風きゅうりということか。

シェフの山口氏は言う。「朝風きゅうりは、日本古来のきゅうりです。原種から守り、種から育てている。だれも料理したがらない野菜ですね。でも、僕はこの子が好きなんですよ。普通のきゅうりより水っぽくならないからリゾットにすると良いです。」
消えかかっているきゅうりを活かす。シェフの食材に対する愛を感じる。

シェフの腕にかかった昔ながらのきゅうりは、野趣に富み、どこか懐かしい味がした。
遺伝子操作をされていない、日本古来の野菜の味。

京都の野菜は1000年の味がした。

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