2016.01.12

広島ボーイズ
Hiroshima boys

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ハワイ滞在中の日曜の朝、マノアにあるホノルル・キリスト教会の礼拝へ友人と向かうことにした。学生時代をこの町で過ごした彼女、その時間はまるで「繭の中で守られていたようだった」という。日系人のお婆さん、お爺さんが何よりも優しく、その優しさを繭と言ったのだ。

ワイキキの中心地からそれほど遠くないマノアは、喧噪から離れた閑静な住宅街。近くにはコオラウ山脈が聳え、山の奥には清らかなマノア滝が流れる。乾期でも雨量の多いマノアには頻繁に虹が現れるため、ここは「虹の町」と呼ばれている。

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「虹のはじまりに入ったことある?」彼女は車を運転しながら私に問う。虹の中で無数の煌めきに包まれたことがあるという。その世界を体験した人は一体どれくらいいるのだろう。まるでオズの魔法使い。私は助手席で虹の話に感動していると、遙か前方に大きな七色の虹が架かっていることに気づく。まさにここは虹の町なのだと証明している。晴れと曇りを繰り返した後、手が届きそうで届かない光の魔法を神様が見せている。

人口約一億二千万の日本で、キリスト教徒は1%に満たない100万人程。日本では教会へ行かない人も、ハワイでは教会へ行くというのがまた不思議な現象である。

オアフだけでも日語(にちご)の礼拝が行われる教会は20程あり、ハワイがアメリカに併合されるより前の1888年に日本人教会が創立されている。ハワイで多くの日本人がJesusを信仰するようになったのは何故だろう。ホノルル教会のアドミニストレーター松田従旨(マツダツグムネ)氏に伺った。

小雨降る夜に・・・

「1929年5月4日、小雨が降る夜の事。レアヒ結核療養所に入院していた3人の若者が伝道師のメッセージに感銘を受け、結核療養所を抜け出し、タンタラスの山へ祈りのために籠もりました。逃げ出した結核患者の大捜索が警察により行われほどの騒ぎになったのです。病が癒やされた3人の若者は3日後にタンタラスを下山。警察は3人を逮捕します。ところが、医者による検査の結果、結核が完全に治癒していたことが分かり釈放されたのです。ホノルル・キリスト教会創立者の丹治秀雄氏は、その奇跡を間近に見ており、ご自身も祈りによって結核が癒やされたお一人です。1932年5月にホノルル・キリスト教会の創立が神に許されました。」

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松田氏が一枚の写真を見せて下さった。そこに写っているのはなんと日本のお城。しかし、これは教会だという。「マキキ聖城基督教会」。高知城を模して創られたそうだ。

土佐藩出身の奥村多喜衛牧師は、キリスト教と武士道には共通点が多いと考え、城の天守閣を聖書の「神のやぐら」にたとえ、日米文化の調和を象徴に据えた。

奥村牧師は、ハワイにいる日本人移民労働者の過酷な生活を知り、1894年29歳のとき宣教師としてハワイに渡り、飲酒や博打で自堕落な生活を送っている日系移民の生活向上に努められた。1920年代、アメリカの排日感情が高ぶる中で、いかにして日系人がアメリカ社会の中で欠かせない存在となれるか模索したという。
「最も大切なのは、日本人固有の勤勉さ、礼儀正しさ、忠誠心を保持しながらアメリカ化することだと奥村牧師は呼びかけたのです。」
城を模したマキキ教会は、ハワイ日系人の心の拠り所となっていた。ハワイに多くの日語教会がある理由は、伝道の力もあるのだろうが、人々の中に何かにすがりたい念い(おもい)もあったのだろうか。

ラリー・三輪氏、ファーストファンデーションバンク

雨上がりの午後、ロコガールのマイさんのご紹介で、日系アメリカ人のラリー・文雄・三輪氏にお逢いするためFirst Foundation Bankへ向かった。上席副頭取である三輪さんは1931年ホノルル生まれ、御年84歳。笑顔がとてもチャーミングで穏やかな紳士である。

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ハワイには明治からの移民のため広島ボーイ、広島ギョール(ガール)が多いと聞くが、三輪さんもその一人。ルーツを辿れば、広島を語らずにハワイは語れない。

「私のファミリールーツはハワイでは127年になります。明治23年、曾祖父が45歳ぐらいの頃、ハワイ島のヒロに労働移民者としてたった一人で渡って来ました。サトウキビ畑の労働は3年契約でしたが、2年目に病に倒れ、曾祖父の代わりに祖父がハワイへ渡りました。働き盛りの20代でしたが、酷暑の中、朝から晩までの労働は非常にきつく賃金は安い。Bread(パン)が2~3セントで購入できた時代です。なんとか3年の契約は果たしました。

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しかし、祖父はサトウキビよりも、2~3千人に売ることが出来るGrocery (食料品店)を開くことを決意し、ヒロを引き上げオアフで食料品店を開きました。当時ハワイの銀行の融資は白人の枠しか存在しなかった為、食料品店を開くにしても、トラック、家、全部自己資本。日系の人は自分で儲けなければ何も買えなかったのです。そのような銀行の態勢は戦後まで続きます。1954年セントラルパシフィックバンク(中央太平洋銀行)が出来て初めて、日系人も融資が出来る銀行が設立されたのです。日系二世が力を合わせて創った、ハワイでは五本の指に入る銀行です。」

こうして営まれた木造の小売店「J. S. MIWA (James Seigo Miwa)」がオアフのカリヒにあったという。ところが、お爺様は、ハワイで徴兵され、日本に戻り、日清戦争、日露戦争へ。

「奇跡的にも生き延びた祖父は、戦後ハワイに戻り、14~5歳の父をハワイに呼び戻します。その後、父が問屋を継ぎました。私が2歳の時、父の仕事の都合で日本に移住します。西宮に住んだ後、広島市の三篠小学校に入学し、広島高等師範付属中学校(現広島大付属高)に進学。時は第二次世界大戦の最中。1945年7月4日、私が中学2年生の時、広島の中心地から離れた村、豊田郡戸野村(東広島市)へ疎開。

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一月ほど経った8月6日の朝4時頃でした。私たちは家に帰れるということで、その喜びから大声を出して騒いでいたら先生に叱られ『今朝、お前たちは帰さない』と言われた。代わりに他の3人の生徒が先に広島に帰らされたのです。

帰してもらえなかった私は、登校途中2機の飛行機が広島の中心地に飛んでいくのが見えました。米軍のB29 が二機。落下傘が落ちたのが見え、10秒ほど経って黄色い光がピカッと光った。ゴールドに近い綺麗なYellowでね。それが原爆とは知らなかった。

朝8時過ぎに駅に着いた3人はおそらく原爆投下によって亡くなられたと思うのです。翌7日の朝、被爆した人が疎開先の村まで逃げてきたけれど、皮膚はただれ、服は破け、『黒い雨が降った』と皆さん苦しそうで・・・。その時初めて原爆が落とされた事実を知りました。」

世界にたった独り取り残されたような 広島駅のプラットフォーム

「私は、広島駅のホームに立って呆然としました。何十キロも離れた宇品港が見えるのですから。鉄筋コンリートの洋館もみんな倒れていた。10万人以上が住む場所に家もなく私一人が立っている。侘しい。

自宅があった場所に一人で向かうと、真っ黒に焦げた松の木が一本だけ残っていた。その後、附属中学に行くと、黒焦げのトマトがありました。空腹だったのでおもわず手を伸ばしましたが、何故かこれは食べてはいけないと思った。とても怖かった。

どうしたらいいのかわからず一時間近くぼんやりして、再び自宅のあった場所へ戻り、火消し用の水槽の壁に黒い墨のような物で書かれたメッセージを見つたのです。

“無事に逃げる事が出来たから、もし住所が分かれば帰ってらっしゃい。”と農家の住所が書いてあった。汽車で4時間くらい掛け、さらに駅から5時間以上歩いて、夜7時頃ようやく農家に辿り着きました。奇跡です。」

当時の三輪さんの日記には「(B29爆撃機が)爆撃したのを目撃した。(中略)あの憎らしい胴体を見よ。我(われ)に一機の戦闘機さへあれば」と悔しがり、「敵機は広島を焼夷(しょうい)攻撃したとの事である。(中略)父母の事が気にかかる」と記されていた。

1946年、三輪さんは、東京でハワイの市民権を回復。ハワイ帰りだった父から「米国の強さの源を確かめてこい」と勧められ、47年に渡米。

「東京に行く汽車の中では10時間、復員兵がごちゃ混ぜで辛かったけれど、覚えているのは瀬戸内海のきれいな海と富士山。東京も広島同様、町は真っ黒に焼けていました。市民権を回復して1947年6月に姉と一緒にハワイに帰りました。船で7日間かけてアロハ塔に到着。船の中で誕生日を迎え、ハワイに着いたとたん16歳になったのです。別世界でした。水が透き通っていてね、あの頃はアロハ塔の傍でも泳ぐことが出来たんですよ。海の水が綺麗だった。」

何事も耐えられる

1943年に交換船で日本に帰国したお父様は、「戦時中に日本に帰った」という理由で戦後ハワイに戻れなくなってしまったという。親米を唱えていたにもかかわらず、ハワイにあったお父様の持ち家と、経営していたビル、事業、トラック等の持ち物は全て、戦後、アメリカ政府に没収されてしまう。

「ハワイに来たら1ドル450円の時代。日本の両親からは仕送りなど無かったから、自分で働いて生活していました。私が問屋を継がなかった理由は、日本にいる家族を守るため、そして、日本はアメリカには到底敵わないということを日本で訴えるため。」

三輪さんは皿洗いなどをしながら高校、大学、大学院へ進学し、卒業後証券会社や銀行を経て、9年前に仲間とハワイで商業銀行を設立した。

「若いときはアメリカ大陸に渡って色々と学び経験を積みたかったので、高校卒業後本土に渡りました。それから本土の大学、大学院に奨学金で進学し、ファッション業、証券業、銀行業と様々な経験を重ね今日に至ります。でも、14歳の時に経験した侘しい気持ちは忘れられない。あの時に、人生は何事も耐えられるということを学びました。」

三輪さんにとってのハワイとは

「ハワイは日本と米国本土の架け橋。日本から短時間で訪問できるし、のんびりとした場所でありロマンチックなところもある。自然が多く、ビーチの美しさは世界一だと思います。ハワイが愛される理由は、何と言っても、気候です。健康のために非常に良い気候だと感じます。

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それから、人がみんな優しい。アロハスピリット(アロハの精神)がありますからね。それは昔から今日まで変わらない。変わったのは、人口が増え建物が近代化してきてマンションやホテルが増えてきたことではないでしょうか。」

戦後、デンバーで差別を受け、マイノリティーとして引け目を感じたという三輪さん。

「バスの停留所で待っているときに白人から日本人を馬鹿にするような酷い言葉を投げかけられ、靴を投げるふりをされたことがあります。それでも、日本人として生きていく事に素晴らしい面がありました。少数民族なので功績を残したいという希望と野望が混合して多くのことにチャレンジすることができたという事です。少数民族が集まり、競争意識の上で、成功する可能性が高いと思います。」

三輪さんは70代で再婚されている。私もまだ大丈夫(笑)?

「40,50、60・・・まだまだ大丈夫ですよ!ハワイに住みたいですか?分かりました。いい人探しましょう!ああ、これから人探しで忙しくなりそうだ。」

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旧約聖書では、ノアの大洪水が起きたあと、神は「もう二度とあなたたちを滅ぼさない」と私たちに約束をし、人と動物を祝福されたと言う。その契約のあかしとして、「雲の中にわたしの虹を置く」と虹をお創りになられた。これが、この世の虹のはじまり。

マノアで見た虹、三輪さんが経験した日本とアメリカの虹、私の中に架けて下さった虹。

He has made everything beautiful in its time.

三輪さんは「この国は誰にも平等にチャンスをくれた」とアメリカへ感謝している。若い日の広島の経験、敗戦を経て、「憎しみを超え、互いを理解し合う努力が平和につながる」と和解の大切さを訴えている。

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