2015.12.08

ハワイ米軍基地篇-
巨大な戦艦の小さなへこみ

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1887年、ハワイ王国からパールハーバー(真珠湾)の独占使用権を獲得したアメリカ合衆国。アメリカ太平洋軍の総司令部が置かれたキャンプ・スミス周辺には、海軍、空軍、陸軍、海兵隊の基地が集められている。パールハーバーのみならずオアフ島の殆どの部分が基地で占められており、ハワイでは軍関連の産業が観光業に匹敵するほど。

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先の大戦中、戦車で摩耗しないようアスファルトではなくコンクリートで造られたオアフ島のハイウェイ。私はワイキキからハイウェイに乗り、パールハーバー航空博物館を目指す。Pearl Harbor Navy Base(海軍基地)のゲートでハワイのリョウちゃんこと小池良児氏と約一年ぶりの再会を果たした。元アメリカ太平洋軍総司令官の右腕だという海兵隊中佐退役Gary G. Meyers氏にもご同行いただき、今回は特別にPearl Harbor Navy Base(海軍基地)と、Hickam Air force base(空軍基地)を案内していただけると言うことで、自動車を乗り換え、一般の人は通過できないゲートを通り抜けた。

Since1940

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当たり前だが、基地の中はとんでもなく広い。Waikiki Area(2.8km) 50個分の面積。
更に驚いたことは、基地内で目にする建物が75年以上前の1940年ごろからそのままだということ。つまり、日本軍は動くもの(船、飛行機等)だけピンポイントで攻撃していたという。「あれは、Water Tower(貯水槽)ですが、日本軍はこの貯水槽を飛び越えて空軍基地の攻撃に向かいました。これを教会だと思って攻撃しなかったのです。日本の武士道です。」と、小池さん。

「“Aloha Submarine Base”と書かれた石造りのアパートのような建物は海兵隊の宿舎で、第二次世界大戦のころから、今も乗組員がそのまま住んでいます。そしてあちらが “Ship Yard(造船工場)”ハワイの中で最も働いている人が多い(密集している)エリアです。」建物に残っている弾痕は、日本軍による攻撃と言うよりも、アメリカ兵が迎撃の際に撃ったフレンドリーファイヤーが多いと言う。

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Hale Alii(王様の家) と呼ばれる敷地内に入ると芝が綺麗に刈られ、カメハメハ時代の王朝の一部の人しか植えてはいけないロイヤルパームというヤシの木が幾本もスーッと気高く伸びている。まるでヤシの貴婦人のよう。道路脇には軍の上層部の邸宅が建並んでいる。「ここが、陸海空をしきっている太平洋軍総司令官(最高司令官)のお宅です」ロイヤルパームに守られるように聳える真っ白な美しいお屋敷。「日本でいう、迎賓館のようなものですね。来賓はここに招かれます。日本の防衛大臣もここで歓迎レセプションを受けました。1920年くらい、第二次世界大戦前から建っています。」

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「あそこは、水を抜いて船底を修理するドライデックという場所。ここには第二次世界大戦の時はペンシルバニアという軍艦が入っていました。」
「メンテナンスにお金がかかりますね。だからアメリカはTAX高いのですね。」
「ええ、ハワイは国と州から3割強サラリーから税金に取られていますけど、パラダイスに住むには上納金払わないとね」

又、工業製品や燃料をアメリカ本土からの輸入に頼っているハワイは、本土よりも物価が高い。

「ここは、ネバダという軍艦が唯一逃げようとしたのですが、日本軍はそれを見逃さず、すかさず攻撃しました。万が一ここで沈められてしまうと、入り江の出入りが出来なくなるという事で、日本軍による爆撃で沈められる前に自力で座礁した場所です。」
岸壁には星条旗が掲げられている。

戦争に撰ばれた

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「ちなみに、ホノルル空港というのは空軍基地の一角を借りているだけだから、有事にはまちがいなく軍事基地になります。」なるほど、よく考えたらホノルル空港はパールハーバーのすぐ近くだ。「ハワイを中継してミクロネシアなど前線に行く軍艦や輸送船が寄港し、ワイキキのホテルも軍に接収され、カラカウア通りにも戦車が行き交っていました。」

やはり、アメリカは軍の国だ。そして、ハワイはアメリカの50番目の州であると改めて気付かされる。

「おこがましい言い方ですが、そのためにカメハメハ一族も色々な目にあったわけで・・・オバマ大統領も軍からサラリー貰っていますからね。」

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マウイ島の南にカホオラヴェ島という小さな無人島がある。カホオラヴェ島は、島ごと海軍の爆撃演習場となり、いまだに不発弾や地雷の撤去が進まず、人が立ち入ることが出来ない。その島に、私は数年前、テレビ番組の撮影で特別に上陸した。見渡す限りの赤土。戦闘車両が走り、爆撃や砲撃の演習が繰り返し行われ、傷ついてしまった大地があった。人の気配はなく、ただただ風が強かった。

ヘイアウ(神殿)の跡があり、小石が積み上げられ、レイが手向けられていたのが印象的だった。戦争開始と同時にここを追い出されてしまった先住ハワイ人の祈りの跡。神聖な場所だったのだ。不発弾が未だ残る島で、自由に動き回ることは許されず、後ろ髪をひかれるような思いでカホオラヴェ島を飛び立った。こんなに小さく美しいおだやかな島が、戦争に撰ばれてしまったのだと・・・。

小さなへこみ艦

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太平洋戦争での日本の降伏文書調印式が行われたミズーリ戦艦では、日本人の女性ガイドさんによって、戦艦の大きさ、調印式の様子、戦闘の様子をわかりやすく丁寧に説明していただいた。中でも私の目に焼き付いたのは、船艦の巨大さよりも、調印式の場所よりも、巨大な戦艦に残っている小さなへこみだった。

一機の戦闘機神風特攻隊(ゼロ戦)が、左の翼をひっかけてミズーリに衝突した痕だという。機体の半分は海に落下、右の翼が大きく投げ出されミズーリに残ったそうだ。特攻機に積んでいた爆弾は既に投下していたらしく、爆発はなかったが、飛び散った燃料は引火して一帯は炎に包まれたようだ。アメリカ兵によって即座に消火され、結局は大きなダメージを与える攻撃にはならなかった。しかし、船の上のアメリカ兵は右の翼の残骸と共に、特攻機を操縦していた日本人操縦士の遺体を発見。たとえ遺体といえども、戦争中。敵の遺体をアメリカ兵はすぐに片付けようとした…それに気付いた当時の艦長ウィリアム・キャラハン氏は、兵士たちを止め、翌日ミズーリ鑑の上で水葬をきちんと行ったのだという。

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「さっきまで自分の命を狙っていた敵のお葬式を、なぜ?そこまで丁寧にするのか・・・」と、アメリカ兵たちはさすがに艦長に反対。

「たとえ敵国の兵士といえども、祖国を守ろうと命がけで敵艦に突っ込む、その気持ちは、自分たちアメリカを背負って戦っている気持ちとまったく同じ気持ちである。ましてや狭い砲火をかいくぐってここまでミズーリに近づいてこられたこの日本兵の操縦の腕と、その勇気は尊敬に値する。亡くなった遺体にはもう戦う意志はない。これは艦長命令だ。」
と言って、兵士たちを納得させ、翌日日本兵のお葬式は丁重に執り行われたそうだ。

通常は遺体にアメリカの国旗をかけるが、日本兵にまさかアメリカの国旗は・・・と、朝日旗を夜な夜な縫い上げ、日本兵の遺体にかけられたと言う。

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その日本兵は、どなただったのか。1945年4月11日お昼の12時15分頃、鹿児島県鹿屋航空基地を飛び立った岡山県出身、石野節雄海軍少尉(当時19歳)の打電が残されていたので石野少尉の可能性が高いという。わずか19歳・・・。皮肉にも、飛行機の玩具を持った幼少時の石野さんのお写真に胸が締め付けられる。巨大な戦艦の小さなへこみ・・・。

真珠湾の中央には、いまだ戦艦アリゾナの残骸と共に海底に多くの遺体が眠っている。

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ミズーリ鑑下船後は、再びギャリーさんと小池さんに合流。エンジン好きの小池さんのお計らいで、ここには載せきれないほどの数々の戦闘機も見せて下さった。

小池さんとギャリーさんは、日系人として母国日本の暗号の解読をしたM.I.S.(ミリタリー・インテリジェンス・サービス)や、442連隊の資料を収集し、日米親善プロジェクト「ハワイ日系エキジビット」として公開する計画を進めている。2016年5月より6ヶ月間、日本各地で展示会を開催する予定である。

本日はまさに真珠湾攻撃のあった日。戦後70年が経った今、アメリカと日本の戦いの場であった聖なるハワイを、私は改めて学ばせていただいている。来年の展示会には是非足を運びたい。

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