2015.10.13

積丹ブルーと鰊幻映

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夏の北海道を訪れるのは何年ぶりだろう。

今、私は車で札幌を出発し、積丹半島へ向かっている。ハンドルを握るドライバーさんの隣で、私は20年以上前の夏休みを思い出す。家族で訪れた夏の北海道。父が録画したホームビデオの中では、幼い私と弟がルスツ高原を爽快に駆け回り、元気よくソーラン節を踊っていた気がする。「ドッコイショー、ドッコイショ!ソーラン、ソーラン!」。あの掛け声は、溢れんばかりのニシンの入った網を引き上げるときの漁師さんたちの力入れの音頭だと知ったのは、少し大人になってからのことだった。

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まず、目指すは、積丹町の神威岬。北海道出身のMさんが小学生のころ読んだアイヌ伝説をひとつ語ってくれた。
北海道を造るとき、コタンカラカムイという神様が、日本海岸の整理は女神に、太平洋岸の整理を男の神に命令した。お互いどちらが早く仕上げるか競争する。女神は途中で出会った友達と会話に花が咲き、気がつくと男の神は仕事がほとんど終わりに近づいていたので、あわてた女神はあまり入念に海岸を整理しなかった。
なるほど、地図を広げてみると、北海道の太平洋側の地形は美しい「くの字」である一方、日本海側は「でこぼこ」だ。

女神が大急ぎで造った日本海側、中でも日本海に最も突き出た岬が、積丹半島の神威岬。「積丹(シャクコタン)」とはアイヌ語で「夏の村」を意味する。
なぜ夏の村と呼んだのか分らないが、素敵な名称だ。多くの家族連れがいまここで夏休みを愉しんでいるように、アイヌにとっても積丹は夏の憩いの場所だったのだろうか。そんな単純な理由ではないだろう。いや、意外とそんな単純なものかもしれないとも思った。しかし、アイヌ語の地名を探っていくと、地質学の研究にも役立つほどその土地をよく表していると聞くと、益々興味が湧いてくる。

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神威岬の先端まで延びる道は「チャレンカの小径」と呼ばれている。チャレンカとは、奥州から逃れてきた源義経と恋仲になったアイヌの娘の名。神威岬から舟で大陸へ渡った義経に自分は捨てられたと思ったチャレンカ姫は、岬の先端から海へ身を投げたという悲しい伝説が残っている。
「チャレンカの小径」は、その可愛らしい名とは裏腹になかなかの険しさ。一歩一歩慎重に歩みを進める私の橫を少年が風のように追い抜いた。「一人で先に行かないで!」後方から母親が小学生の子供に注意を呼びかける声が岬いっぱいに響く。もし踏み外したら海に真っ逆さまだ。この辺りは、岩礁が多い上、潮流も早い。日本海でも最大の航海の難所として知られている。岬の先端に近づくと、少年の小さな背中越しに広がる光景に私は歩みを止める・・・周囲300度の丸い水平線、ブルーサファイアの宝石のように輝く海の透明度!「これが、積丹ブルー!」気持ちだけは涼しくなり噴き出ていた汗が一気に引いていく。

「ねえ、ソーラン節やってみせて。ドッコイショー、ドッコイショ!ソーラン、ソーラン!」母親に促された少年は、「ヤダよ」と恥ずかしそうに観光客の行列をかき分けながら、軽やかに小径を登っていく。岬の先端で、カメラマンは汗を拭いながら、積丹ブルーと私を一眼レフカメラに収めてくれた。

ヤーレン ソーラン ソーラン ソーラン ソーラン ソーラン
にしん来たかと かもめに問えば
わたしゃ立つ鳥
波に聞け チョイ
ヤサエ エンヤンサーノ ドッコイショ ア ドッコイショ
おどる銀鱗(ぎんりん) かもめの唄に
お浜大漁の 陽がのぼる チョイ
ヤサエ エンヤンサーノ ドッコイショ ア ドッコイショ

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積丹の神威岬から追分ソーランラインを北上し、ニシン御殿のひとつ、旧余市福原漁場に着いた。江戸、明治、大正、昭和と日本海沿岸はニシン漁で栄え、海岸線には数多くの立派なニシン御殿(番屋)が建並んでいたという。石蔵に入り、壁に展示されている一枚の写真に、私の目から鱗が落ちた・・・。

「これ・・・もしかして、ぜ~んぶ ニシン!?」

ニシンの沖上げを終えた砂浜が、ニシン、ニシン、またニシン、足の踏み場も無いほどニシンで埋め尽くされ、ニシンの山と化している。その豊漁ぶりは、私の想像を遙かに超えたものだった。

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福原漁場の敷地内には、主屋、文書庫、石蔵、米味噌倉、干場などが配置されている。重要な書類等が保管された文書庫の入り口は、日本のお城でしか見かけないような、漆喰の分厚い両開き扉で、防火対策も万全。親方と漁師が寝起きを共にした2階建ての主屋には、当時の食事も再現されている。ニシン漁最盛期、漁師は一日に4~5回ご飯を食べなくては体がもたないほど過酷な労働だったそうだが、それにしても・・・白米が大変貴重だった時代に、漁場ではギンシャリが食べ放題だったというから、まさに、ニシン黄金時代だったのだ。

ニシンの漁獲量は、北海道全体では明治30年の97万トンが最大。その後、豊漁と凶漁を繰り返しながら減少し、昭和30年のニシン群来2,400トンを最後に、日本海春ニシンは「幻の魚」となる。100万トン近くも到来していたニシンは、なぜ幻となってしまったのだろう。
要因① 「乱獲」
漁獲規制を設けず、獲れるだけ獲ったため、ニシンは子孫を残せなくなるほど減少してしまった。
要因② 「森林伐採」
北海道を開拓する際、森林伐採し過ぎたことや、海岸線のコンクリート化により森から海へ栄養が流れなくなり、ニシンのエサであるプランクトンが減少してしまった。
要因③ 「温暖化」
年々、海水温が上昇し、ニシンは冷たい海水を求めて北上してしまった。

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ニシン群来は、秋田、青森と南から順に来遊が途絶えていることから、やはり冷たい海を求めて北上したのだろうか。

近頃の地球の気象はおかしい。日本でも竜巻が発生したり、大粒の雹が降ったり、夏はより暑く、冬はより寒くなっている。これは北極の氷の減少が関係しているという。氷が溶けて海面が現れることで気流にも乱れが生じる。

2007年にノルウェーを訪れた際、私と同じ生まれ年の位置にあった氷河が大幅に後退している現実を私は目の当たりにした。また、ノルウェーでは過去に乱獲によりニシンが海から消える危機に見舞われたことがあった。それを機に、ノルウェー政府は漁獲規制を厳しく設け、再びニシンがノルウェーの海に戻ってきたそうだ。このような事実があるとしたら、要因は、乱獲なのか。

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おそらくニシンが消えた理由は3つすべてだと思う。ニシンは私たちに様々な要因を考えさせ、海に目を向けさせている。

私は、先ほどの神威岬を思い出した。私の前を駆けて行った少年、この少年が大人になった頃、ニシンは再び大群でこの海を訪れているだろうか。儚い期待を少年の肩に託し、私は夏の村をあとにした。

追記

-蝦夷地と和人-
江戸時代後期、蝦夷地に和人が入り、原野や山林を開拓。蝦夷地が北海道と改称された明治2年(1869年)から今年は147年目。3年後の平成30年(2018年)には北海道誕生150年を迎える。北海道を旅していると、シャクコタン、カムイ、チャレンカなど、あまり聞き慣れない独特な響きに数多く出逢う。ユウバリ、イシカリ、ヨイチ、サッポロ然り100近い地名がアイヌの言葉だ。また、ホッカイドウのカイは「アイヌの祖国」というアイヌ語でもある。150年・・・和人の開拓の苦労を思う一方、先住民の知恵や想いが北の大地に込められていることを知った私は、この奥深い「ホッカイドウ」を、もっともっと旅してみたいと思った。

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