2015.06.09

鹿児島の宝

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「鹿児島の黒い宝石」

黒豚は、埼玉県、群馬県、岡山県、香川県でも生産されているが、本家本元は鹿児島県の「かごしま黒豚」である。

1960年代、高度経済成長期の東京では、肉屋のステータスは「黒豚を扱っている」ことだった。島津氏の家紋が付いた「黒豚取扱店舗」の看板は10万円もの高値で闇取引きされていたほど、肉屋にとって黒豚を扱っていることは大変な名誉だったのである。黒豚の最高峰ブランド「かごしま黒豚」は黒いダイヤモンドと称えられ、普通の豚肉を「鹿児島産の黒豚」と表示するニセモノも氾濫した。これほど人気を誇る黒豚のルーツとは。その美味しさの秘密とは。私は黒い宝石を求め、鹿児島へ飛び立った。

【黒豚】

鹿児島港から桜島フェリーに乗り、黒豚が肥育されている肝属郡肝付町「高山黒豚実験農場」へ。豚の伝染病が流行っていた為、今回の訪問は、農家の方から、「極力少人数で来て下さい」と、許可をいただくことが叶っての訪問となった。豚舎に到着するや否や、豚の伝染病予防のため、白い帽子と長靴、防塵服の着用を必須とされ、気合いを入れて準備していたオシャレな服も靴も防塵服の下ではあえなく空振り。ファッションショーをしに来たのでは無い。豚に会いに来たのだ・・・!と、気を引き締める。

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現在、鹿児島全体で肥育されている黒豚は650軒、135万頭。ここ、高山農場では約2000頭の黒豚が肥育されている。長靴を消毒液に浸し、徹底した衛生管理のもと肥育豚舎に入ると、5か月目になる豚が100頭ほどいた。 5か月とはいえ私が想像していた以上に体が大きい。体重約60kgの黒豚が、まるで犬のような鳴き声を響かせ、ひしめき合っている。

黒豚といえども全身が真っ黒なわけではなく、鼻、尻尾の先、4本の足首、合計6箇所が白い。この「六白」が、かごしま黒豚最大の特徴だ。鹿児島の黒豚は、元々いた島豚に英国のバークシャー種を掛け合わせた「鹿児島バークシャー」と呼ばれる豚で、明治時代から百年以上改良を重ねて築き上げた独自の系統。鹿児島では県内の純粋な黒豚同士を交配させたもののみ黒豚と呼ぶのだそうだ。

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肥育豚舎を出ると、次に訪れたのは分娩舎。ここでまず目に飛び込んだのはそれぞれの檻に設置された幾つもの柵。これは、母豚が横たわった際に子豚を潰してしまわないよう母豚の体を固定する器具。子豚の死因で一番多いのが、病死よりも母親の下敷きになる圧死なのだという。

改良で大きくなった豚は足が弱まり、昔の豚と比べると子を守ろうとする母性まで失われつつあるようだ。

黒豚の出産は白豚よりも大変。生まれたばかりの黒豚の子は1.2㎏前後で、白豚の子に比べて体が小さく、生存率も低い。お母さんがお乳を出す力も弱い。白豚の産子数が13頭~だとすると、黒豚は8~10頭。雑種は、ある程度の抵抗力を備えているのだが、かごしま黒豚は純粋種で血が濃い為か、生まれてくる子豚は仮死状態か死産が多いという。自分で胎膜を破れない子豚がいた場合は人が膜を破り、出産を手助けする。訪れた分娩舎でも、てっきり気持ちよさそうに眠っているものだと思っていた子豚に近づいてみると、既に命が亡い子豚が何頭かいた。体が弱い子豚だったため、病死と判断されていた。

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人工授精した豚は100日目で分娩舎に連れてこられ、114日目で出産を迎える。陣痛促進剤やホルモン剤で日中に出産できるようにコントロールしているのだという。 助産婦さんが、手際よくパチンパチンと子豚の歯を鋏でカットしていた。これはお母さんのおっぱいを噛まないようにするためと、子豚同士が尻尾を噛み切ってしまわないためだという。噛まれた傷口から病原菌が入らないようにするためだ。同時に、臍の緒と尻尾もカット。雄のままでは肉に臭みが出て売り物にならず、発育にも差が出る為、雄豚は、生後二週間ほどで去勢される。順調に生まれてきた子豚たちは28日目までお母さんのお乳を飲んで育ち、やがて母親から離され、30kgで出荷される豚と、240日目の110kgで出荷される豚に分かれる。

黒豚のエサは、サツマイモ、大麦、トウモロコシ、大豆、魚粉、そして栄養剤。そして、下痢予防や、鉄剤が与えられる。黒豚をより美味しくするのが、鹿児島の特産品「サツマイモ」である。サツマイモを食べさせた方が脂肪の融点が2~3度上昇し、べとつかず、さっぱりとした食感になり、ビタミンEも増すということも研究で明らかになっている。又、サツマイモのデンプン質の影響か、脂肪の色は白く、肉質が良くなり、独特の風味となる。

黒豚は、骨が細く肉になる歩留まりが白豚に比べて2%高い。又、黒豚は肉が締まっているため、白豚より日持ちが二週間長い。黒豚の肉のきめ細かさは「普通の豚肉が木綿だとしたら、黒豚はシルク」。こうして大切に育てられた黒豚は脂肪の質、肉の質、光沢、どれをとっても普通の豚と違い、他と比べようのない豚になるのだ。

【かごしま黒豚の歴史】

では、鹿児島の黒豚は一体どこからやってきたのだろう。そのルーツは、江戸時代まで遡ることができる。「江戸時代に豚肉を食べていたの!?」そう、当時の日本ではめずらしく、鹿児島では豚肉を食べていたというのだ。鹿児島での豚食の歴史は謎だらけだが、文献にはところどころに豚を食したであろう記録が残されている。

鹿児島でも、仏教的な理由から労役に使う牛や馬は食べてはいけないとされていたのだが、鶏と豚は「歩く野菜」と言われ、家庭で飼われ、お祝い事や行事の際にはふるまわれていたという。日本中が肉食をタブーとし、お肉を食べることに抵抗を感じていた中、なぜ鹿児島では豚肉が食べられていたのだろう。

理由として考えられるのが、①中央から遠かったということ、②琉球(沖縄)と関係があったということ、③薩摩藩が狩りを奨励したということ。

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薩摩は他国よりも鳥獣を山野で狩ることが多く、薩摩藩は、日常も戦場だと考え、狩猟も軍事訓練のひとつだと奨励していたようだ。その上、維新を成し遂げた薩摩の若者達の間には、「豚追い」という心身を鍛える行事があったという。「豚追い」!?聞いたことのない行事だが、祝いごとなどが行われる場で、野原の真ん中に大きな豚を放ち、青竹を持った薩摩士族の青年達が、ホラ貝の音を合図に豚を追い回す・・・という遊びだったらしい。この頃の島豚は野生種に近く、全身真っ黒で気性も激しかっただろう。追いかけられた豚は狂ったように暴れ回り猛獣と化し、豚と人間の取っ組み合いとなる。なんて危なっかしく騒がしく勇ましい遊びだろう。人間に突きかかってくる豚・・・、スペイン等で行われている闘牛のようなものだろうか。結局、ターゲットにされた豚は仕留められ、芋焼酎と共にその日のご馳走になったというが、この豚追いという行事、林房雄の「西郷隆盛」という小説にしか出てこないから、本当にあった遊びなのかは定かではない。けれども、気性の荒い豚を追い回す・・・薩摩藩の武士達のあいだでいかにもありそうなお話だ。ということで、狩猟で仕留めた鹿や猪を食べていたのだから、豚を食べていたとしても別段不思議ではない。

【島豚のオリジン】

元々の全身真っ黒な島豚は、おそらく中国大陸からやってきたのではないかと推測されている。そういえば・・・私が中国を訪れたとき、雲南省の山奥で暮す人々の生活の中には必ず一家に一頭豚が居た。記憶している限り、その豚たちは白ではなく黒かった。そして、客をもてなす最高のもてなしは、豚の内臓を提供すること。同じく、沖縄や奄美方面では、豚の頭から尻尾、内臓まであますところなくいただく風習が残っている。一方、400年以上も豚を飼ってきた歴史を持つ鹿児島では、臓物料理をあまり見かけない。豚骨や、しゃぶしゃぶ、豚肉そのもののお料理しかない。かつて、本土に広がっていた殺生禁断の歴史がこのあたりには影響しているのかもしれない。

【豚を食べる習慣はどのように広まったのだろう】

13~16世紀に朝鮮半島や中国沿岸を荒らした強盗集団「倭寇」によって持ち込まれたという説が一つ。西日本で多くみられた倭寇の活動中心地は薩摩だった中国に上陸した倭寇たちが豚肉を食べて持ち帰り、鹿児島で飼われたのではないか。

もう一つは、16~19世紀、清の人々に滅ぼされようとしていた明の人々が、琉球や南九州に逃れてきた際に豚を食す習慣も伝えられたのではないか、という説。古代、薩摩半島の片浦は坊津と共に、島津氏の中国との貿易で栄えた港であり、薩摩藩の秘密の貿易の地だった。片浦のあるご家庭には、昔から、航海の神様に豚肉をお供えする風習が伝えられているそうだ。

【黒豚愛】

1609年、関ヶ原の戦いが終わり江戸幕府が開かれた後、琉球は薩摩の支配下になり、奄美群島も薩摩藩の直轄地となった。人と物の行き来も盛んになり、琉球とのあいだに豚の道も出来た。1862年~2年間、大島警衛方として奄美に赴任していた薩摩藩。家老、桂久武の日記には、なんと、京都で豚飯を食べたという記録が残っている。この頃、薩摩と琉球以外で豚を飼っていた場所は無いはずなのに・・・京都で豚飯とは・・・。保存のために塩に漬けた塩豚を持ち込みお役人さんに作らせたのだろうか!?

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さて、その豚飯はどのようなものかというと、錦糸卵や干し椎茸、小ネギの小口切り、ショウガのみじん切りを豚飯にのせ、熱々のだし汁をかけて食べる・・・これって、奄美の鶏飯に似ていたのではないか・・・実に、おいしそうだ!西郷隆盛も大久保利通も木戸孝允も坂本龍馬もこの豚飯を食べていたのかもしれない。西郷さんは豚骨と味噌汁が大好物だったという。豚骨は骨をしゃぶることで力を与えてくれ、新しく命が生まれ変わるという意味があったそうな。京都で豚飯が恋しくなるほど、豚好きだったのですね。

島津斉彬は徳川慶喜の父、斉昭に豚肉を盛んに贈っていた。その豚は・・・これまた、琉球や薩摩でしか飼われていないはずなのに、江戸の藩邸で飼われていた可能性が高いのだ。斉昭のもとでくらしていた慶喜は、この頃、開国を目指すようになり、外国文化、外国の食べ物、新しい文明を取り入れようとする新文明志向から豚肉も好んで食べていたようだ。それ故、周囲からは「豚一さま!」とあだ名されていたほど。(豚一の一は一橋家出身だから・・・?)

新しい文明を志して豚肉を食した徳川慶喜だが、後に、薩摩中心の討幕派に政権の座を奪われる・・・という、なんとも皮肉な結末。明治になって、封建体制の崩壊と同時に1200年も続いていた肉食のタブーは解放され、鹿児島の養豚熱はさらに高まっていくのである。

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【黒豚の父】

養豚を、ただ飼って食べるだけの家畜から産業に発展させた功労者が、黒豚の父と称えられる、園田兵助(1864~1935年)。明治中期の枕崎市は激烈な台風の影響で、街は壊滅状態となり、土地は痩せ、漁師も農家の人も厳しい生活を強いられた。 獣医だった園田兵助は、枕崎の人々の暮らしをなんとか向上させたいという一心で、養豚をただ飼って食べるだけの家畜から産業に発展させた、まさに黒豚の父である。 園田氏は、台風に強いサツマイモの栽培と、漁師町ならではの魚のアラを組み合わせた養豚を考案し、村人に豚を飼うよう説得。

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その頃、イギリスから輸入したバークシャー種の黒豚に着目し、品種改良に励んだという。 真っ白な豚より黒い毛のバークシャーの方が、元々居た真っ黒な島豚に合っていたのだろうし、人々にも抵抗なく受け入れられただろう。肉質の優れているバークシャー種と掛け合わせることで、より、黒豚の良さを引き出したというわけだ。「養豚をするなら、最高の豚を飼育しなければ、新しい産業としての価値がない」「どんなに上質な豚を育てても、販売経路が広がらなければ需要は増えない」と語った園田兵助は、養豚組合を設立。養豚組合初代代表として活動し、養豚業を営む全家族のため、枕崎のためにと、72歳で亡くなるまで養豚業に尽力し、かごしま黒豚は豚肉の中でも高級品として全国に知られるようになったのである。現在、枕崎にはその功労を称え、園田兵助の銅像が建てられている。黒豚はこうして苦しいときも人々の暮らしを支えてきた。

2010年、宮崎県で口蹄疫が発生した際、鹿児島では牛より先に黒豚を避難させ、第二次世界大戦中は学童よりも先に黒豚を疎開させている。鹿児島県にとって黒豚は、まさに至極の宝なのだ。磨けば光るが、磨き方が悪いと光らない鹿児島の黒いダイヤモンドは、出産も育て方も白豚より手間暇を必要とするが、それでもその美味しさと希少価値、鹿児島の土地でしか育むことができない芸術品であることは譲れない。元々白豚の育成をしていた養豚農家も徐々に黒豚に転換し、黒豚の数も増えているという。

長い歴史の中で、改良に情熱を注がれ、日本中の人に愛されてきた黒豚。至極の宝石は一朝一夕で出来るものではないと知った。「黒いダイヤモンド」は、これからも磨かれ続け、注がれた愛情を私たちはいただくのだろう。

鹿児島の宝石・・・即ち、日本の宝である。

*「かごしま黒豚」は、1999年(平成11年)に商標登録されている。

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