2015.05.12

薩摩 - 戦後70年

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薩隅方言

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鹿児島空港に降り立つと、ターミナルに掲げられた共立製薬の大きな看板の中に私がいる。背景には桜島。看板を背に自撮りをしていたら通りすがりの人に「オマンサァ本人かぁ?」と二度見をされ、恥ずかしながらスーツケースを引きずってタクシーに乗り込んだ。

晴れ女の私には珍しく、低く重い雲が空を覆い、雄大な桜島も、東京からやって来た私たちに一向に姿を見せてくれない。
こんなに雲隠れしている桜島も珍しい、と地元の運転手さん。
「最近の桜島はどんなですか?」と訊ねると「毎日、爆発してますよ」との返答。
「毎日って、それは普通のことなんですか?」他県から来た私にはその返答は、にわかに受け止められない。
「噴火は、鹿児島県人には普通のことですよ」と運転手さんが再び口を開くと、「うちの社長も毎日爆発してるわ」と同行のMさんが呟いた。

共立製薬代表取締役髙居社長は、まっこと桜島のようなお方で、毎日噴火してエネルギーに満ちている”よかにせ(美男子)”だ。日に焼けた大柄な躰は、まるで西郷さんを具現化したような鹿児島男児。

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「社長が同郷の人と会話をしている時は、話がちんぷんかんぷんになる・・・」と、Mさん。

確かに、鹿児島弁(薩隅方言)は独特だ。そして南北に長い鹿児島県内では、方言と言っても地域によって差があり十把一絡げにできない。

鹿児島県は、九州本土の南端に位置し、奄美の島々と周辺の離島も含み、南九州方言と奄美方言に大きく分けられる。沖江良部島と与論島はどちらかといえば沖縄の言葉に近いという。

鹿児島弁は地域差が大きく、同県人同士でも言葉の捉え違いでトラブルになることもあるそうで、同じ九州の人同士でも「何言いよるか解らん」のだと言う。関東や関西の方言とも大きく異なるため「薩隅(さつぐう)方言人工言語説」という怪しい説も囁かれている。

薩摩のお国言葉があまりにも特殊なため、戦時中は早口でしゃべって暗号代わりに使われていたという説だ。

関ヶ原で負けた薩摩藩が幕府の隠密の侵入を防ぐために、また、他国の人を言葉で聞き分けるために意図的に自国の言葉を造り、幕府には「薩摩の連中は気が狂ったか」と思わせた。そうして幕府が油断しているうちに、密貿易や密出国を重ね、倒幕への力をつけたというのだ。

第二次世界大戦中、日本の様々な暗号を解読したアメリカの言語学者ですら「早口の鹿児島弁」はまったく解読できず、匙を投げたという。薩摩藩おそるべしである。だとすれば、薩摩藩の人工言語説も信憑性が無きにしもあらずなのだが・・・学者さんたちはあまり肯定的に捉えていないようだ。

現在私たちも使用している標準語になった鹿児島弁・・・それは「おい!」と「こら!」。人を注意するときに使う「こら!」相手のことを呼ぶ「おい!」も元々は鹿児島弁なのだ。(こら=これは、あぁ、などの感嘆詞)明治維新、警視庁に薩摩の出身者が多かった当時、呼びかけに使用した「おい!」や「こら!」が次第に浸透し標準語になっていったという。

もう一つ標準語になった言葉がある。それは「ビンタ」。薩隅方言ではビンタは「頭」という名詞なのだ。それが何故 "叩く" という動詞に変化していったのだろう・・・。鹿児島では「ビンタがよか」は「頭が良い」という意味になるそうだ。「ビンタがよか」などと言われたら相手の頬をパチンとひっぱたいてしまいそうで、こわい・・・。所変われば言葉も変わる。

鹿児島県は南の端の県でありながら、つい百年前まで日本全国を揺り動かし、近代日本の礎を築いたのであるから、改めて「鹿児島」という土地にも人にも強大なエネルギーを感じる。

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【知覧】
さて、桜島を見つめている西郷隆盛の銅像を通り過ぎ、未だ、天気の優れない曇り空の下、私たちは車で、知覧へ向かった。
峠道を越えていく道すがら、前方を茶色い生き物が横切り「きゃっ!」と、小さな悲鳴が車内に溢れた。横切ったのは狸だった。狸も驚いたのかきょとんと、暫く、こちらを見つめ、数秒後には桜の木の下へ走り去ってしまった。狸なんて何十年ぶりに見掛けただろう。のどかな場所だ。
知覧は薩摩の小京都と呼ばれており江戸時代の武家屋敷が建並ぶ情緒溢れる美しい町。僅かに茜色を残す桜と新緑が美しい。
知覧は茶所としても知られており、開聞岳(かいもんだけ)という山が望めるという。薩摩半島の南端に聳える開聞岳は別名「さつま富士」と呼ばれ、富士山に見立てた美しい山だと聞いてはいたが、ここに来ても桜島のみならず開聞岳までも雲に覆われ私には姿を見せてくれない。

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私たちは知覧平和公園に辿り着いた。公園内には「知覧特攻平和会館」という標識が掲げられている。まず、知覧特攻観音堂を参拝し、会館を訪れた。

太平洋戦争末期、東南アジア諸国に近い鹿児島には、多くの前線基地が設けられ、沖縄本土に近い知覧は陸軍特攻部隊の最前線特攻基地だった。

知覧特攻平和会館では特攻隊員1036人の遺影と共に、隊員たちが家族に宛てた手紙や遺稿が、出撃、戦死した順に展示されている。遺影の彼らは若干17~20歳前後の少年たち。軍人を一生の仕事に撰んだ人のみならず、民間の操縦士や文化系の学生もいる。殆どが操縦経験の浅い若者。そして、遺影に記されている出身地が実に様々だ。数多くの出身の人が各地から続々と知覧に集結し、僅かな滞在の後、沖縄へ散華したのだ。

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壁に並べられた遺影の若者たちの瞳がまっすぐにこちらを見つめている。なんていい顔なんだろう。おこがましくも本当にいい顔だと感じてしまう。1036人それぞれの遺影からは、あどけなさの中にも20歳前後とは思えない責任感を伴う誇り高さ、清々しさ、凜々しさ、勇ましさを感じ、私は、何とも言えない切ない思いで一杯だった。

米軍が沖縄に上陸し窮地に追い込まれた旧日本軍は、飛行機もろとも敵艦に体当たりするという特攻作戦を敢行。昭和20年(1945年)4月1日の初出撃から6月11日の攻撃終了まで、知覧からの出撃は439名。全特攻戦死者1036名のうち、最も多くの若い命が空へ散ってしまった。

語り部の講話が始まったので、私も大勢の観光客に混ざり、三式戦闘機”飛燕(ひえん)”の前で耳を傾けた。飛燕の後方には開聞岳の写真が飾られている。

彼らは最初、薩摩半島の南端に聳える開聞岳を目指して飛行。
富士山に見立てられたこの開聞岳に挙手をして、飛行兵たちは今生の別れを告げた。飛び立った戦闘機の中で、開聞岳の山が見えるか見えないかの時が、人間として苦しくて、切なくて、悔しくて、何ともいえない気持ちだったのだろう。そしてこの開聞岳が見えなくなったら、真一文字に沖縄を目指した。

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戦闘機に乗り込む瞬間は、片足を離すか離さないかの時、彼らにとってこの大地との今生の別れの瞬間。開聞岳が見えなくなった時、祖国と、家族と、愛する人々との本当に最後のお別れの瞬間だった。

それ故に、「どうか開聞岳の写真を飛燕の後ろに置いて欲しい」という、遺族の方、戦友、生き残った人たちの強い願いで開聞岳の写真を飾っているのだと、お年を召した語り部が説明して下さった。語り部は遺影の隊員の出身地も年齢も氏名もすべて暗記している。私はそのことにも心を打たれた。

アメリカの艦隊に向け、鹿児島の空軍基地から次々と飛び立って行った若い隊員たちに、見送る人から花が送られた。隊員たちは「この花まで一緒に死なせまい」と、送られる花を滑走路にそっと置いて出撃したと言われている。

その黄色い花の種は風に舞い、開聞岳の麓で戦後70年の今もなお毎年黄色い花畑になっているそうだ。これは「特攻花」と呼ばれるオオキンケイギクという花だそうだが、外来種ということから、隊員に渡されたのはこの花では無く桜だったのでは・・・とも言われている。けれども、この黄色い花が開聞岳のそばで鮮やかな黄色に彩られている光景は「特攻花」と呼んでもいいのではないだろうか。私たちに彼らのことを忘れさせない、忘れてはならないという意味で弔いの花なのだと思う。

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開聞岳(さつま富士)に別れを告げてから沖縄を目指す約二時間の飛行時間、自らの死を見つめるその二時間を、どんな想いで飛んでいたのかは誰にも分らない。けれども確かなことは、誰一人として自分の為に死んでいった人はいないということ。国のため、家族のため、愛する人を守らねばという使命感。
それがたとえ、命令であったとしても、きっと、後に続く者を信じ飛び立ったのだ。

知覧特攻平和観音堂には1036名の隊員たちの名前が刻まれている。特攻隊員として散華した若く崇高で清らかな魂の上に私達が生かされていること、そして家族がいて、国があり、世界があることを深く感謝し、英霊の御霊が安らかでありますように観音像に手を合わせた。

語り部の言葉は続く・・・「こうしている今も、世界では戦火が絶えません。みんな平和というものがどこにあるかわからないんだ。私たちの為に散っていった彼らの死を無駄にしないで、ずっと命を繋ぐんだぞ。平和は国民全体で守るんだぞ。そして、未来へ繋いでいくんだ。」

私には最後まで姿を見せなかった開聞岳の想いと、語り部の言葉が、私の胸に大きく広がるのだった。

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