2014.11.11

Pearl Harbor

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これまで、私は50カ国以上を訪問しているのだが、なんと、今回、初めて単独で異国の地に降り立った。

異国と言っても、日本人に馴染みの深いハワイ。ホノルル空港に到着すると、空港職員さんたちが親指と小指を立て、「アロ~ハ!」と満面の笑みで迎えてくださり、何とも言えない安心感を得る。ああ、ハワイ!明るい陽射しとあたたかい風をおもいっきり浴びながら、ちょっぴり迷子の気分で、お迎えを待つ。

夏休みも終わったこの秋口、なぜこんなにたくさんの日本人がいるのか。機内も満席、ホノルル空港も日本人で溢れていた。

環太平洋の真ん中、どんな大陸からも一番離れ、孤立しているここハワイ、と考えてみれば、とてもふしぎな場所だ。

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ハワイの初日、私たちはオアフ島の一大観光地「太平洋航空博物館 パールハーバー(Pacific Aviation Museum)」を目指すことに。
フリーウェイかハイウェイで、とにかく高速道路をアメリカンで大胆な運転で走行。私は最強の晴れ女のはずなのに、次第に雲行きが怪しくなり、頭上を重たい雨雲が覆い始めているではないか。

「ハワイの道は水を吸わない溶岩石だから、すぐ洪水のようになるの。それにしてもハワイは車が増えたなぁ。人口が増えたのかな。」と、同行者のMさんが呟く。

今やハワイには107カ国の人が住み、オアフ島だけで95万、全体では140万と、人口は増えているようだ。Mさんのいた時のハワイとだいぶ変わってきたという。

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「博物館は室内だし大丈夫。きっと、外に出たら雨上がってるし、ハワイに傘はいらない、いらない。ああ、それにしても、ハワイの車ってどうしてこんなにのろまなの!」と言っていたMさんの運転が、気づくとスローなハワイ時間に切り替わってきている。 H1フリーウェイのウェストに合流し、出口15Aを出てさらに走ると『Arizona Memorial』の標識が見えてきた。

博物館の入り口でシャトルバスに乗り換え、米軍所有の敷地内を移動する。シャトルバスに乗り込む人は圧倒的にアメリカ人が多く、日本人の私にはアウェイ感が漂っている。

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入り口で待っていて下さったのは、Mさんご指名の小池良児さんという日本人ガイドさんだった。
日本を離れ、かれこれ25年になるという小池さんは、ル・マンなどの耐久レースにもマネージャー(英国ポルシェチーム)として参加した経歴を持ち、日本国内の選手権でもレーシングドライバーだったそう!
私が昨年、富士スピードウェイで、近藤真彦氏を取材させていただいた際にお会いした柳田春人氏のレースチームのマネージャーを務めていたこともあるそうだ。

ハワイに住むことになったきっかけを尋ねると、「飛行機操縦の免許取得に来たのがきっかけで、そのまま住み着いてしまった」という。その行動力はもちろんすばらしいけれど、小池さん、よほどエンジン好きと見える。

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さっそく館内に進むと、昔のワイキキビーチや、アロハタワーの写真、飛行機の傍でポーズをとっているアメリカ人の写真や飛行機会社のユニフォームが展示され、初期の飛行機内の様子が映像で流されている。時間があまりなかったが、小池さんの高速解説に、私は耳をダンボにしてついていく。

「1885年、129年前にホノルル港が出来ました。海上交通が主流の時代、港は外航船の出入国でにぎわいました。この頃、アジア系労働者が呼び込まれます。過酷な労働にやってくる移民を"Aloha!" な気持ちで迎え入れるために1925年、ホノルル港のランドマークとしてアロハタワーが建てられました。」

アロハな心?

「そう、 "Alohaな精神" です。一言で説明するのはとても難しいのですが…。"こんにちは"や、"さようなら"などの挨拶にも度々使われますが、他者への感謝の気持ちや敬意を表し、愛や幸福を分かち合うという意味を持つのです。」

空港に着くとスタッフが満面の笑みで迎えてくれる「Aloha!」には、そういう心が込められているのか。

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「1935年11月22日、乗員74名で、初めて、世界一周旅行を果たします。世界旅行の始まりです。 45万円だった船旅は、76万円の飛行機の旅に。アメリカからハワイまで5日かかっていたのが、飛行機で17時間に。お金で時間を買う時代になったのですね。時代は観光業にシフトされていきます。サンフランシスコから真珠湾、真珠湾から香港というように、ここ真珠湾は、世界の中継点だったのです。」

島が出来て180万年。クック船長がオアフ島を見つけたのは1776年、約240年前。飛行機旅行が始まって、わずか79年。ハワイは急激な観光業の発展を遂げているのだった。

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「1927年、"Pan American"という会社が設立されます。一番古い飛行機会社です。けれども、1992年に倒産してしまいます。」

「アメリカからハワイまでの道中、万が一、飛行機にトラブルがあった場合は海上に不時着させ、貨物船が救助に向かうよう備えました。その貨物会社がマトソンです。船はロサンゼルスから、飛行機はサンフランシスコから出航しました。
お気づきですか、ハワイではPan am(パンナム)やコカコーラなどの企業広告を掲げたSign Board(看板)を見ないでしょ?
ハワイ州の決まりで、ネオンで明るくした宣伝広告を出してはいけないんです。」

「1945年から飛行機が世界一周するようになりました。この頃、爆撃機のB29を改造した100人乗りの世界一周旅客機、ストラッククルーザーもボーイング社から開発されます。飛行機もITも戦争によって開発は進むのですね。」

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1941年12月7日(ハワイ時間)、ハワイ開戦。ここ太平洋航空博物館には、零戦や、電撃機から発射された魚雷、数々のアメリカの戦闘機が展示されている。

小池さんはその機体一体一体を前に、メモ一つ見ず、細かい数字まで、事細かに熱く語られるので、あたかも自分がその時代にタイムスリップしてしまったような感覚に襲われる。

日本の武士道の心意気を感じる緻密に計算された戦略、飛行戦術。逆に日本人には無かったアメリカの遊び心ある飛行機の設計など、分かりやすく説明して下さる。戦争の事実を公平に語ろうと尽くしていることが彼の語彙でわかる。

「大爆発で沈没した戦艦アリゾナは未だに1177名の乗組員と共に真珠湾に眠っているのです。また、2004年、ハワイ大学の海洋研究チームによって、12月7日未明に帰る事の無い任務に就いた日本の潜航艇が発見された事で、遺族の方が引き上げの為の嘆願書を出したそうですが、未だに引き上げられていません。」

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「建物などに弾痕の跡を残しているのも、米国側が日本からの奇襲攻撃により戦争に介入していった事を証明しようとしているからです。当事の日系人はジャップやスパイと呼ばれ資産を没収され、捕虜収容所(当事はキャンプと呼ばれていた)に収監されアメリカ軍に忠誠を誓い、家族を守る為に入隊したのですそれが、"ゴーフォーブローク"を合言葉に戦った442日系人部隊であり生存率はアメリカ軍の中でももっとも低かったと言われ日系人にとっては一番過酷な戦争でした」

「また、ヌアヌ・パリ展望台の日蓮宗のお寺には、真珠湾攻撃で殉職された55名の飛行士、9名の潜航艇搭乗員と1名の空母の護衛機の教官、計65名の方々が慰霊されています。大戦後期には零戦による特攻(神風特攻隊)が実施され、零戦に乗ったら"敵に当たる時まで目を開けていろ"と言われ訓練したが、結局出撃の番は回ってこなかったという90歳代のおじいさんの話を直接聞いた時、僕は鳥肌が立ち、泣きました。

国の為ではあったけれど、家族の為なんです。あれから73年、戦争のことは、だんだんと語り継いでくれる人がいなくなってきた。実際に戦った方々にお会いして、僕は分かったんです。伝えなくちゃいけないと思った。英霊に対しての合掌です。亡くなった人に申し訳ないという気持ち、その気持ちから僕はここでこうしてガイドを務めているのです。」

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お喋りはあまり得意ではないと仰っていた小池さんだけれど、伝えなければいけないという強い気持ちが小池さんに力を与えているのだと感じた。

約7時間かけてハワイに着いたわたしは、機内でほとんどの時間を寝て過ごした。現在の旅客機でさえ、7時間の飛行に多少の疲労感が残ることは否めない。空母より零戦に乗り込んだ日本の搭乗員は片道320キロの距離をたった一人で、国を背負い、家族を想い、当然私みたいにグーグー寝ることなんて許される術もなく、この地まで来て、さらに戦闘を交えたのだから想像を絶する。真っ当に戦い、この地で命尽きてしまった兵隊さんたちはどんなに悔しかっただろう。

現在、博物館側(米国)は日本の武勇伝や、飛行士たちの話もここに残そうと取り組み始めているそうだ。これはとても大きな変革なのではないだろうか。

戦争という同じ過ちを
繰り返すばかりでは、
戦ったひとたちの魂も報われない
敵も味方もなく、死んでしまった人たちは
皆な犠牲者なのだと
写真を見ながら心の中で
弔う気持ちでいっぱいになる
命を受け継いだ人が
幸福で平和にならないといけない

この人たちにも遠い場所で待っている家族がいたのだということ、更にアメリカ人として戦った日系人はどんな思いだったのだろう。そしてその前に、元々ここには土地を奪われたハワイ人(先住民)がいたということ、土地って何だ、領土って何だ、国って何だ、人種って何だ。とても複雑な思いに駆られた。そして私は、ハワイの懐の深さを感じずにはいられなかった。

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ハワイ、パールハーバーは水の豊かな場所。本来は"ワイモミ"と呼ばれ(ハワイ語で"真珠の水")とてもきれいな水の湧く場所であったそうです。

戦争の本当の恐ろしさも知らない私が、こんな風に簡単に文章にしてしまうことも躊躇われるほど、史実をきちんと伝えて残すということは大変なことだ。

航空博物館を出るとすっかり雨は上がり、ハワイのお日様が顔を出し、平和な現実世界に引き戻してくれた。博物館を振り返ると、玄関で、小池さんが深々とお辞儀をして見送ってくださっていた。

その日の夜、夕食後ワイキキのどこかから「同期の桜」の熱唱を聞いた気がした。
-ホノルル、第一日目-

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